作曲家名前を押すとホームにその作曲家の曲を集めます。
ほとんどの作品は「セミ・クラシック」「ライト・クラシック」と呼ばれ、アンコール曲やファミリーコンサートの目玉としてよく演奏される。いくつかの曲は、吹奏楽など定番、運動会の定番BGMの1つと言える。テレビCMやアニメにもよく使われるため、「作曲者は知らないが曲は知っている」の典型ともいえる。
行進曲を100曲以上作曲したことから、「マーチ王」と呼ばれる。ワシントン海兵隊楽団の指揮者を経て「スーザ吹奏楽団」を結成、レコーディングや全米各地へ演奏旅行をする。行進曲は歩きながらの演奏も多いため、今までのチューバを改造し、立奏を前提とした設計のスーザフォーンを考案した。
19世紀のアメリカ東部で名声を博したオペラ歌手。イタリア留学で「弦楽四重奏曲第1番ロ短調」を作曲。この第2楽章が後に弦楽合奏用に編曲され、「弦楽のためのアダージョ」として広く親しまれている。
楽団「グレン・ミラーオーケストラ」を結成し、バンドリーダー、作編曲家として絶大な人気を博す。第二次大戦中の慰問演奏の移動中に戦死。残された楽団員が「ニュー・グレン・ミラー・オーケストラ」を結成し、スウィングジャズ ビッグ・バンドの代表格として、今でも世界で愛されている。
「アメリカ音楽」を作り上げたとされている、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍した作曲家。シェーンベルクとは親交を持ち、多調や十二音技法にも関心を持っており、いくつかの作品も残っている。
アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人の作曲家、ピアノ演奏家。ラグタイムで有名な演奏家・作曲家であり、「ラグタイム王」(King of Ragtime)と呼ばれている。
音楽教師でありヴァイオリニスト。シューマン、ワーグナーに強い影響を受けた。1901年の「威風堂々」第1番の作曲・初演以降、傑作を次々と作曲し、名実共に英国楽壇の重鎮となった。初期のレコーディング活動にも積極的であり演奏家としての活動も多い。ロンドン交響楽団の首席指揮者も務めたことがある。
王立音楽院ではトロンボーンも学び、オーケストラ奏者として生計を立てていたこともある。最も有名な「惑星」以外、あまり作品は知られていないが、合唱のための曲や、イングランド各地の民謡や東洋的な作品、吹奏楽曲も多く遺している。
ミュージカルで大きな成功を収めたイギリスの作曲家。代表作に『ジーザス・クライスト・スーパースター』『エビータ』『キャッツ』『オペラ座の怪人』『サンセット大通り』などがある。
ランカシャーのブラックバーンで音楽家の両親の間に生まれる。「海底大戦争 スティングレイ」、「サンダーバード」、「キャプテン・スカーレット」、「謎の円盤UFO」等、ジェリー・アンダーソン制作作品の音楽を担当したことで知られる。
教会オルガニストの頃、ヴェルディのオペラ『アイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。イタリア・オペラの伝統で、美しく覚えやすい旋律、劇的な展開と緻密な描写的表現、転調やオーケストレーションの豊かさが特徴的。
イタリアオペラの作曲家。イタリア人の愛国心に共鳴する作品が多く、当時の人気はイタリア統一運動と共に盛り上がった。現代においても、多数の作品が親しまれているオペラ作家である。
サン・マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリン奏者でもある。後に宮廷の「協奏曲長」として多くの器楽曲をのこし、特にヴァイオリン協奏曲集「四季」は有名。
オペラ作曲家として有名だが、宗教曲や室内楽曲なども手がけている。彼の作品は当時の大衆やショパンなど同時代の音楽家に非常に人気があったが、死後は忘れられた作曲家となったが、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。
作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者。約100曲のピアノソナタ、ソナチネ、などのピアノ作品多数と4つの交響曲となどを残している。有名な曲はソナチネアルバムの中にある作品36の1から6番。
マンドリン独奏またはヴァイオリン独奏のための有名な『チャールダーシュ』を除けば、実質的には無名の作曲家である。
オペラ作曲家、指揮者。一幕歌劇コンクールで、代表作「カヴァレリア・ルスティカーナ」によって驚異的な成功を収める。ロッシーニ音楽院院長に就任し、オペラや指揮者としても非常に成功を収めたが、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。
9歳でミラノ音楽院で音楽を学び、10歳で最初の交響曲を作曲した。1856年に、最初のオペラ「婚約者」を作曲し、この作品でオペラ作曲家としての名声を得る。最も有名なオペラ作品は「ラ・ジョコンダ」であり、こんにち定期的に演奏されているオペラは、ほぼ「ラ・ジョコンダ」だけとなっている。
イタリア・ルネサンス音楽末期、バロック音楽初期の作曲家。
カッチーニの前半生についてはほとんど知られていないが、ローマかティヴォリのどちらかで生まれ、フィレンツェの彫刻家ジョヴァンニ・カッチーニ(Giovanni Caccini)と関連があるかもしれないとされる。メディチ家の宮廷でテノール歌手をしていた。
近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者、1908年まではヴァイオリンやヴィオラ奏者として活動したがその後は作曲に転向した、16世紀から18世紀の音楽に対する関心から古楽に基づく作品も遺した。
ヴェネツィア共和国(現イタリア)のバロック音楽の作曲家。
オペラ作曲家として著名であったが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として知られている。
13歳で、ホルストに師事、さまざまな楽器に習熟し、プロレベルの技量を身につけていた。軽音楽の編曲・指揮に才能を発揮、放送局やレコード会社などの当時新しいメディアでの音楽ディレクターとして活躍した。
音楽の都「ウィーン」の代表的な作曲家「ワルツの父」ヨハン・シュトラウス1世の長男。生涯に渡ってウィンナワルツの作曲を続け、「ワルツ王」と呼ばれる。毎年元日に行われる「ウィーンフィル、ニューイヤーコンサート」では、シュトラウス・ファミリーの作品を中心にプログラムが組まれる。
古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人。5歳で最初の作曲をし、神童の演奏を披露、7歳の時の演奏は作家のゲーテに絶賛され、数多くの名曲を残し35歳の12月5日ウィーンにて永眠。
ドイツ歌曲においての功績により「歌曲の王」「もっとも詩情豊かな音楽家」と呼ばれる。ロマン派の枠に入れられるがウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。
ウィンナ・ワルツの基礎を築いたため、「ワルツの父」とも呼ばれる。長男・ヨハンがヨハン・シュトラウス2世である。作曲家になることに父親である1世は反対するが、止めることはできなかった。2世は「ワルツ王」と評される。
古典派を代表するオーストリアの作曲家。多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。ハイドンの作品の総数は、未完、断片、紛失、偽作などを含めるとこれらをひとつにまとめることは困難である。
ウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家、ウィーンフィル、ニューヨークフィル、ウィーン宮廷歌劇場等の指揮者を務めた。
交響曲を10曲完成させたが、そのうちの9番目の『大地の歌』は、一般的な交響曲の様式から大きく外れた作品であったためと同時に、『第9番』を最後の大作として亡くなる人が多く、そのジンクスを気にして番号なしの曲にしたと言われている。
3歳の頃からヴァイオリンを習い始め、7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学、10歳にして首席で卒業し、その後、パリ高等音楽院に入学、12歳にして首席で卒業した世界的ヴァイオリニスト、作曲家。後にフランスを経てアメリカ国籍となった。ユダヤ系。
1962年、ニューヨークで交通事故に遭い、死去した。
作曲家、ヴァイオリン奏者。作品のほとんどヴァイオリンと管弦楽やピアノのための作品である。スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられる。
芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人と言われ、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。弦楽四重奏曲も有名。
指揮者や歌手としても活動した。30曲のオペレッタや、バレエ音楽など多数の舞台音楽を作曲したが、序曲の一部が、映画やアニメ、コマーシャルなどの音楽に転用され、よく使われているオペレッタとその序曲が有名。
チェコ国民楽派で、後期ロマン派を代表する作曲家。ブラームスと出会い、その後アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。クラシック音楽史上屈指の人気作曲家でもある。
300曲以上の軍楽隊のための行進曲、他にもポルカ、ワルツを作曲した事から「ボヘミアのスーザ」とも呼ばれる。しかし彼の名声を世界的なものにしたのは、世界各地のサーカスで演奏された最も有名な「剣闘士の入場」の影響が大きい。
チェコ民族の音楽を生涯の目標として活動。50歳にして病により聴覚を失った後に作った「モルダウ」を含む一連の6つの交響詩から成る「我が祖国」は、チェコ音楽の象徴となり、スメタナの命日の5月12日から催される『プラハの春音楽祭』では、開幕曲として、毎年演奏され続けている。
作曲家、音楽理論家。管楽器のための作品を多数残し、この分野での開拓者となった。ベートーヴェンとは同年生まれで、友人でもある。著作は20世紀初頭まで多くの音楽学校で教材として用いられた。
「音楽の父」とも称され、バッハ一族の中でももっとも偉大であるという意味で大バッハと呼ばれる。幅広いジャンルにわたって様々な技法を使い作曲をしたが、オペラは残していない。
楽聖と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人である。その作品は古典派音楽の集大成でありロマン派音楽の先駆けとされている。晩年の約10年は難聴が悪化しほぼ聞こえない状態にまで陥ったが、その苦境の中で交響曲第9番などの大作を仕上げた。
バロック期を代表する重要な作曲家のひとり、ドイツ生まれでイギリスに帰化した。JS.Bachとは同年代生まれだが、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、ヘンデルを「音楽の母」と呼ぶこともある。
オルガン奏者で、教師でもある。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献し、バロック中期における最も重要な作曲家の一人に数えられる。日本では特に「カノン」が有名。
ロマン派歌劇の頂点として「歌劇王」の別名で知られる。それまでの序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲と断片的な演奏形式やオペラの劇作、歌詞などをひとつの総合芸術にまとめ上げ、「楽劇」と呼ばれる形式を完成させた。
バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における「三大B」とも称され、ベートーヴェンの後継者ととらえる人もいる。交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、「新古典派」という呼称で呼ばれることもある。
オペレッタの原型を作ったともいわれ、音楽と喜劇との融合を果たした。権力や軍隊を風刺したコメディーや、パロディーは大ヒットしたが、痛烈な風刺、退廃的な快楽主義は知識人からの批判も多かった。今日では第二帝政期フランスを代表する文化のひとつとして歴史的評価も作品的評価も高い。
5人兄弟の末っ子で、薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなりピアニストを諦め音楽評論家、作曲家として生計を立てる。シューマンの旋律やオーケストラの楽器の重ね方、和声やリズムには特徴があり、近年まで様々な評価が絶えなかった。
7歳の頃からバイオリン奏者として人前で演奏し、クラリネット、ギターを弾き、後に名人と呼ばれるほどのホルン奏者になった。息子はリヒャルトシュトラウス である、また、偉大な音楽教師であったと言われている。
作曲家、ヴァイオリニスト、当時は作曲家としてよりも音楽教育理論家としての実力で有名だった。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父。アマデウスには、当時考えうる世界最高の音楽教育を与え、歴史上比類のない作曲家として開花させた。
後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家。リコーダーの奏者としても有名だった。
バロック音楽と古典音楽の中間に位置しているとも云われ、クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として現在3600曲以上が確認され、ギネス世界記録にも正式に認定されている。衰弱のため86歳で死去するまで作曲を続けていた。
ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト。
モーツァルトによるドイツオペラを継承し、自らの『魔弾の射手』によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてワーグナーへと流れを導いた作曲家として知られている。オーケストラの配置を現在に近い形に改めたり、指揮棒を初めて用いた人物としても知られる。
ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家。
ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ・シュトラウスの子。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍した。モーツァルトを崇敬していた。
ノルウェーの民族音楽からの印象で、国民楽派の作曲家として注目される。民族音楽からの深い影響を受けた作曲家。ピアノのために数多くの小品を作曲しており、「北欧のショパン」と呼ばれることがある。
ピアノの演奏活動、教育活動などピアニズムの発展に貢献した。リサイタルと言う形式をはじめて行い、超絶的な技巧で「ピアノの魔術師」と呼ばれた。作曲家としてはピアノ曲を中心した作品が多いが、交響曲や交響詩、晩年には宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。
作曲家、ピアノ演奏家、民俗音楽研究家。
ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析などの精力的な活動を行った民俗音楽学の祖の1人。
古くても価値ある作品を敬意を払って演奏するという音楽作法を確立し、ピアニストやオーケストラの演奏活動を大いに盛んにした。文豪ゲーテ、ロベルト・シューマンとも、親友、良き理解者の間柄。終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。
後期ロマン派的な傾向を持つ作品から、古典派や印象派の様式まで、多数の交響詩、ヴァイオリン協奏曲などの他、劇音楽・歌曲・ピアノ曲等多岐に及ぶ。青年期にはヴァイオリニストを目指したが、後に作曲に専念した。
生前は作曲家としてより指揮者として有名であった、リストのピアノ協奏曲第1番の初演なども手がけた。文学好きで著作には『管弦楽法』などがある。はなはだしい楽器編成の拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。
音楽の作曲に関しては完璧主義者で、時間をかけた作品が多く、気に入らないものはすべて破棄してしまった。今日残るのは13曲位と言われる。パリ音楽院の管弦科教授、作曲科教授。弟子としてはメシアンがいる。
「オーケストレーションの天才」「管弦楽の魔術師」と言われ、卓越した管弦楽法、精緻な書法が特徴的。印象派の作曲家に分類されることが多いが、古典的な曲形式に立脚している反面、ジャズの語法の影響も見られる。編曲作品として、ムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽編曲した「展覧会の絵」が有名。
神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。詩、天文学、数学、絵画などで一流のレベルとして知られ、晩年、印象主義音楽の台頭の中で、近代音楽を批判して古典主義、ロマン主義を貫いた。その作風は折衷的、あるいは穏健かつ知的といわれる。
父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。9歳でパリ音楽院に入学。不朽の名作「アルルの女」組曲やオペラ「カルメン」などがある。
印象主義音楽「印象派」と称されることもある。機能和声にとらわれない自由な和声法など特徴的な技法を用いて独自の作曲をした。全音音階の使用や長音階・短音階以外の旋法による独特のハーモニーは、規則的な律動にとらわれない先駆けでもあり、それまでの西洋音楽の概念からは異色と云われた。
西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を平然と用い、様々な旋法を導入する手法の大流行に大きな影響を与えた。「音楽界の異端児」、「音楽界の変わり者」などと称され、ドビュッシーもラヴェルも、曲技法に影響を受けた事を公言している。
幼い頃から教会のオルガンに触れるうちに天性の楽才を見出されパリの宗教音楽学校に通い、1861年からはサン=サーンスにピアノと作曲を師事。1865年に卒業後、パリのマドレーヌ教会でオルガニストとなった。1871年にはサン=サーンス、フランクらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加している。
バレエ音楽や歌劇で知られるフランス・ロマン派の作曲家。「フランス・バレエ音楽の父」と呼ばれ、優美で繊細な舞台音楽を残した。
シャルル・フランソワ・グノーはフランスの作曲家。
ゲーテの「ファウスト」第1部に基づくオペラ「ファウスト」で成功し、バチカンの実質的な国歌である『賛歌と教皇の行進曲』を作曲した。
オペラの作曲でよく知られ、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気があったが、後にほとんどの作品が忘れ去られてしまった。最近になり時折リバイバルが起っている、その中でも、特に「マノン」と「ウェルテル」は、発表以来途切れることなく上演され、また、バイオリン独奏とオーケストラで演奏される「タイスの瞑想曲」は殊に有名である。
器楽奏者、出版業者であり、熟達した作曲家としていくつかのミサ曲やモテットの曲集を執筆、出版した。日本ではブラスアンサンブルに編曲された曲がよく演奏されている。
その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれる。様々な形式、旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい境地を切り開いた。肺結核に悩まされた病弱の芸術家であった。サブタイトルのほとんどはショパン自身によるものではない。
大変な旅行家であり、芸術的に進んだ西欧の文化を吸収するうち、ロシア人としてのアイデンティティが芽生え、ロシア的な作品を書きたいという願いが起きてくるようになる。国外で広い名声を勝ち得た最初のロシア人作曲家。近代ロシア音楽の父と呼ばれる。
プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨匠の一人と称された。作風は大胆、強烈と評価され、国民楽派の延長として民族的要素を取り入れた社会主義リアリズムの代表的作曲家と見なされる。
「ロシア五人組」の一人。国民楽派の作曲家に分類される。原色的な和音の技法や、和声感覚、作曲技法は、印象主義音楽や表現主義音楽の先駆けとなっている。独特で荘厳な表現、直接的な高ぶった曲調は覚えやすいため、映画やテレビで使用されて有名になった。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品を遺している。日本に滞在した最初のヨーロッパの大作曲家であり、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。
「ロシア五人組」の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残す。華やかだが客観的で簡潔な作風と言われ、ロシアの民謡・文学を題材にした作品が多い。教師としてストラヴィンスキーや、プロコフィエフ、レスピーギなどが学んでいる。
曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚で、叙情的でメランコリックな旋律、流麗で絢爛豪華なオーケストレーション、多彩で天才的なリズムなど親しみやすく、とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されている。旧ソ連時代に改竄されたタイトルは、ソ連崩壊後に原典版に戻された。
ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人であり、化学者、医師でもあった。ムソルグスキーと知り合った頃から作曲を始めた。力強い叙事詩的性格と豊かな和声が特色である。当時は作曲家としてよりも化学者として収入を得ており、尊敬されていた。
ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソ(超一流の演奏家)としてフランツ・リストと並び称される存在である。作曲家としては「私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです…」という言葉が残されている。
生涯、創作の分野は多岐にわたり、原始主義、新古典主義、セリー主義(十二音技法)と、作風を次々に変え続けた。オーケストレーションではリムスキー=コルサコフを師匠とする管弦楽法が発揮され、第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、晩年になってもさらに新しい音楽を求めていた。